日本留学生论文代写范文:中日の民俗文化比較論について

发布时间:2012-04-24 09:08:47 论文编辑:第一代写网

中日の民俗文化比較論について
 
第1章 はじめに 
  この国際化の時代に文化摩擦現象も増大するなかで文化比較は重要である。比較文化とは何か?文化は地球全体、階層、民族、宗教、産業など色々な形で現れるが、それに優劣をつけて評価されるものではないと言われている。現代社会において国際化が進むにつれて異文化間の交流も急速発展している。まず、「文化とは、その最も広義の民俗誌的意味で考えるなら、社会のメンバーとして人間の獲得する、知職、信仰、芸術、道徳、慣習、その他の諸能力を含む複合的全体である」との定義がある。
 私は日本に四年間学生として住んでいた。このため日本文化を少し理解したが、日本文化と中国文化は違うと思う。まず、中国の紹介から入りたいと思う。
 
第2章  中日の地域環境の比較 
2.1 中国の紹介
  中国はアジア大陸の東部、太平洋の西岸に位置しており、陸地面積は地球の陸地面積の6.4%にあたる約960万平方キロ。ロシアとカナダに続いて、世界第3位の面積。日本の約26倍。
 長い歴史と広大な土地をもつ中国。日本がもっとも古くからつながりをもつた国だ。中国を代表する大都市北京、上海は近代化の波にのり毎日違った顔を見せてくれる。西安、広州、桂林など魅力的な都市は中国全土に広がる。偉大なる歴史的文化遺産、美麗な景色、なにをとってもそのスケールの大きさに驚かされる。またどこへ行ってもおいしい本場中国の味に舌鼓を打つことだろう。東西南北、中国への興味は尽きることがない。 
 中国の地形は世界の最高峰、砂漠、草原・高原、森林、など複雑で多様な変化に富んでいる。また、気候は温帯を中心に亜熱帯から亜寒帯までと幅広い。それぞれ異なった文化を持つ56の民族からなる多民族国家。地方毎に方言があり、それぞれの方言はほとんど通じないなど、どこをとっても広くて大きな国・中国が表われている。中国の現在の行政区分は基本的には省、県(市)、郷という三級に分かれている。一級行政区は23省、5自治区(内モンゴル・寧夏回族・新疆ウイグル・広西チワン族・チベット)、4直轄市(北京・天津・上海・重慶)、2特別行政区(香港・マカオ)に分かれており、これが日本の都道府県にあたる。そして省、自治区は自治州、県、自治県、市に区分され、さらに県、自治県は郷、民族郷、鎮という最小の行政単位に区分されている。自治区、自治州、自治県はいずれも民族自治が実行されている。
 
2.2日本の紹介
  面積38万km2の国土を持つ日本。しかし、そのほとんどが山地などであり、1億2000万人の人々が安心して住める場所はわずかしかない。災害と隣り合せの開発が進む。本列島の地形は、「山地」、「丘陵」、「台地」、「低地」および「内水域など」の5つに区分され、そのうち「山地」と「丘陵」の占める割合が約73%であることから、島国であると同時に山国であると言える。これらの地形は、豪雨や地震など自然の影響により変化しており、その過程において数々の自然災害が発生している。また地形変化は、人口増加や都市化にともなって、人為的な丘陵・台地の斜面造成、さらには低地の発展とともに、その延長上にある海岸の埋め立て造成へと拡大してきた。わが国では狭い国土の有効利用として、水害や土砂災害などに対してリスクの高いところに、あえて開発が進んでいる。
 日本列島は太平洋や日本海などの海に囲まれ、大陸とは浅い大陸棚で接している。太平洋側には非常に深い日本海溝や伊豆小笠原海溝がある。日本にはいくつかの火山脈が走っているため、地形は変化に富む。川は短く急流で、山あいでは深い峡谷をなし、海岸線は 
複雑に入りくんでいる。風光明媚なところが多く、温泉地も点在している。日本にはいくつかの火山脈が走っているため、地形は変化に富む。川は短く急流で、山あいでは深い峡谷をなし、海岸線は複雑に入りくんでいる。風光明媚なところが多く、温泉地も点在している。日本列島は環太平洋地震帯の上にあり、火山活動も活発で世界でも有数の地震多発地帯となっている(1923年の関東大震災(マグニチュード7.9)は、東京を含む広い範囲にわたって大規模な損害を与え、1995年の阪神・淡路大震災(マグニチュード7.2)は神戸および淡路島をはじめとする阪神地域に大きな被害をもたらした、二大地震であった)。日本の国土は山地が70%近い。その大部分は森林におおわれているので、国土の森林の面積は66%と断然多い。農業用地は14%、宅地は3%で、工業用地にいたっては、わずか0.4%にすぎない。
 世界には現在191の国家がある。「狭い日本」などとよく言われるが,世界には何と日本より国土の狭い国家が132カ国もあるのだ。旧ソ連を除いたアジア38カ国の中では日本は14番目,ヨーロッパを見ても39カ国中,日本より広い国はフラ              ンス,スペイン,スウェーデンのたった3カ国にすぎない。
 日本を自然の面から見ても,北の北海道は冷帯に属し,網走や知床の海は冬になると流氷で覆われるが,一方南の沖縄や小笠原諸島は亜熱帯に属し,椰子やバナナが自生する。ヨーロッパの国々で国内にこれほど気候の差がある国は1つもない。
 逆に,シンガポールなど東京都より狭いミニ国家はなんと世界に24カ国もある。ロシアやアメリカのような大国と比較するから日本が狭く思えてしまうのだ。ちなみにロシアは日本の約45倍,アメリカは約25倍の国土を持つ。やはり世界は広い。
 日本の人口密度は334人(1997),主要国ではバングラデシュや韓国,オランダなどが日本を上回る。学校で使う地図帳に記載されている統計でも確かにそうなっている。ただしここで,なるほどバングラデシュは日本の倍以上も混雑しているのかと納得するのは正しくない。ガンジス川の三角州に位置するバングラデシュは、ほぼ全国土が平地である。いっぽう日本では,平野は国土のわずか13%にすぎない。そこで山地や湖沼,河川,砂漠などを除外した居住可能な面積を人口で割る「可住地人口密度」で比較すると,日本は2、796人となり,バングラデシュや韓国,オランダの可住地人口密度を大きく上回る。もっとも,シンガポールの人口密度は6、048人,これも数値だけ見れば驚くが,シンガポールは都市国家であり,国土のほとんどが可住地である。都市で見るならば,東京23区の人口密度は12,698人,その混雑度は東京都民でなくても周知の通り,やはり混雑度世界一は日本であろう。
 中国,インド,ブラジルなどは,日本より広大な領土を持つが,陸地で他国と接している国境線が海岸線よりも長く,その分,四面を海に囲まれているニュージーランドや日本よりも200海里水域の面積は狭くなる。ブラジルの200海里水域の面積は世界第8位であるが,国土面積851万平方kmに比べれば0.37倍,それに対し,日本は国土の実に11.9倍の200海里水域を持つ。日本は南西諸島や小笠原諸島など洋上に多くの島々を領土として保有していることも大きな理由の1つである。たとえば,日本最西端の南鳥島は太平洋上の絶海の孤島であるが,地図上でこの島にコンパスの中心をおいて,ぐるりと円を描くとその面積だけで43万平方kmとなり,日本の国土面積38万平方kmを上回る。世界一の漁業国日本にとって,経済水域世界第6位の意義は大きいが,反面,かつて日本漁船が活躍していた北太平洋などの好漁場が、アメリカやロシアの経済水域となって,漁獲量が大きく制限されるようになり,日本の漁業が大きく変革してきたことは周知の通りである。
 
第3章  中日の伝統文化と芸術 
3.1中国の京劇と日本の歌舞伎
3.1.1 京劇
  京劇の役は、性別・年齢・性格などによって、「生・旦・浄・丑」の1つに大きく分けられる。
「生」は男性の役。これはさらに「老生・小生・武生」の3つに分かれている。「老生」は、ひげを蓄えた中高年の人物。歌やせりふは重厚なのがよいとされている。「小生」は、上品でおっとりした男性。たいていロマンチックな恋人役を演じる。「武生」は、武芸に通じる人。神話劇の中の宙返りや戦いの孫悟空や金銭豹なとの役柄を演じる。 「旦」は、女性の役、いわゆる女形だ。「老旦・青衣・花旦・刀馬旦・武旦」に細かく分かれている。「老旦」は老女で、歌・せりふともに「老生」と競っている。「青衣」は貞操が堅くしっかりしていて理性的な中年女性。「花旦」は、無意気で活発な少女。また浮気っぽくてあくどい女も演じる。「武旦」は、立ち回りを得意とし、神話の中の妖径を演じることが多い。「刀馬旦」は、「花旦・武旦」の中間で、勇ましく活発な文武両道にたけた女の将軍である。
 「浄」は、性格が剛直、豪放、あるいは陰険な男の役。役柄を強調するため、誇張効果が大きい。一目でその役の個性を読みとることができるようにするためである。くまどりの色は全て決まった意味を持っている。例えば、赤は忠勇、黒は豪放、青はもくろみ、白は悪賢さ、金・銀は神々を表すのに用いられる。構図が整っていて整然としているのを「睡秬」と呼び、図案が複雑なものは「脸谱」と呼ぶ。これらは装飾がおもしろいだけではなく、人の個性や心境をも表している。
 「丑」は、ひょうきんで風刺的な小人物で、劇中に滑稽なしぐさやせりふを入れて観客を笑わせる、いわゆる道化役。それだけでなく、「丑」は劇の中から抜け出してきて、客観的な立場で批評したりもする。「丑」は京劇独特の伝統的な役柄だ。
 京劇役目の舞台衣装は、「行頭」と呼ばれ、400年前の明代(1368〜1644年)の服装が基礎となっている。踊りのこなしがうまくできるようにと、さらに「水袖(そでの端に付けた白く長い薄地の絹)」を付け、鎧の背中には1本の三角旗あるいはキジの尾を立てて、演技に厚みを加え、律動感を強調している。京劇の服装は美しいだけでなく、劇中人物の身分や境遇をも象徴している。そのため、必ず決まりにのっとって、身につけなければならない。昔、舞台の上では「着間違えるよりは破れたのを着たほうがまし」というほど、着付けを大切にしたのである。
 京劇は、もともとは四方に何もない屋外の舞台で演じられていた。舞台セットもごく簡単。同じ一つの机が、文机になったり、役所で政務を決済する大机になったり、お墓や橋になったり、舞台空間の転換はスムーズであった。そのため、役目は高度に象徴的虚構化され発展させてきた。男優の付けひげ「水袖」、扇、踊りに用いる五色の布、立ち回り用の武器、軍隊用の令旗…これらは全て体と一体になっていて、こなすにはかなり複雑で難しい演技テクニックを要する。しかし、どれも芝居の意義をも表しているのでおろそかにはできない。京劇を演じるのはこのように難しいため、役者は幼い頃から厳しい演技の訓練をしなければならない。それによって初めて、歌、眼差し、踊り、舞台上での歩き方や足の動きが通りスムーズにいくようになり、劇中の人物の思想や感情をも表現できるようになるのである。
   以前、京劇は「役者の劇」ということが強調されていた。全て役者しだい、役者が伝統に基づいて即興で演じていたのである。音楽伴奏を胡弓弾きも太鼓打ちも、劇場の間に條をかけて以心伝心できるほどのよい関係を築かなければ、劇の進行についていけず、互いに息を合わせることもできなかったのである。
 
3.1.2 歌舞伎
1700年頃のこと。幕府が開かれて百年の江戸は、急激な経済発展を続けついに、大坂や京都に並ぶ大都市に成長した。「江戸言葉」が力を持ち始め、町の人々の中に自前の文化を持ちたいという欲望が生まれてきた時代だ。そんな中、京都の人形浄瑠璃、大坂の侠客狂言に対抗する形で育ったのが、江戸の歌舞伎だった。その歌舞伎は、人気を背景に舞台を、屋外から、常設の屋内劇場に移した。
歌舞伎というと、色華やかな舞台装置を背景にして、豪華絢爛衣裳を着た役者が演じているという印象があると思う。しかし、それは、歌舞伎の歴史のここつい百年の出来事だったと言われている。 実は、江戸時代の歌舞伎は、張りぼて同然な舞台装置の前で、地味な衣裳を着て演じられていた。何故だろうか。
それは、当時の照明技術の未熟さが主な理由だ。電気照明が歌舞伎に初めて使われたのは、1887年という。電気ほどは明るくないが、出始めの頃見た人が「昼間のようだ」とその明るさを絶賛したガス灯も、歌舞伎に使われたのは1872年だった。どちらも日本に輸入されてすぐ導入されている。 他の場所での導入実績(街灯とか)が、ほとんど無かった時代のことだ。
それ以前は、明かり窓から採り入った自然光か、蝋燭、油灯だった。これらの明かりは、舞台の中心部分を主に照らし、その一番明るいところで、180ルクス程度だったと言われている(現在の舞台では1000ルクス以上)。 さらに舞台の端の方では10ルクス程度だった。実は当時の観客は舞台上の大部分で、何が起こっているのか見えなかったのである。
その蝋燭だが、鯨の脂で作られていた物だったので、今の貨幣価値で言うと一本200万円位という高価な品だった。これが歌舞伎の鑑賞料金が高かった原因の一つと言われている。 しかも鯨の脂だから、炊くとものすごい悪臭した。暗くて、臭くて、高いという三重苦にも関わらず、他に照明用具がなかったので重宝された。
電気照明が初めて入った頃の観客が、その明るさにどれほど驚いたかの例をひとつあげよう。その人は「手元の弁当のおかずが何であるか見えたことに驚いた」と言っている。近代以前の演劇の照明は、どの国でも観客も照らします。観客は自分の手元すら見えなかったほどの暗さに、慣れ親しんでいたのだった。
歌舞伎の劇場の特徴として「花道」が上げられる。これも歌舞伎の劇場が暗かったことと無縁ではない。役者の姿があまりに見えなかったので、舞台を観客席の真ん中に迫り出す形にせざるをえなかったのだ。さすがに真っ暗でも、すぐ側ならちょっとは見える。
歌舞伎と言ってまず思い浮かべるのは、目の回りのクマに誇張した化粧をする隈取りだ。今の感覚から言うと歌舞伎の役者さんの化粧は、すごく濃いと感じる。しかし江戸時代、初めて歌舞伎に接した人たちの目には、歌舞伎は素顔の役者が出てくる、驚くべき演劇と映った。
日本の古い演劇では、役者は顔を露出しなかった。「能」では役者は面を着けたし、文楽では人形を使った。 西洋でも、ギリシア演劇では仮面を使っていた。ギリシア劇場は、一万人以上を収容できたので、観客は舞台上の細かい所が見えない。いきおい写実性より象徴的なビジュアルが求められたようだ。それが、仮面を使った理由だ。また、屋外上演が多かった「能」でも同様の事が言える。
それに対して、屋内劇場という狭いスペースで上演された歌舞伎では、客と役者が近い距離に配置されるので顔が重要になる。また、最初期の歌舞伎である阿国歌舞伎(17C初期)は男装の女優が出てきて、劇が終わると売春婦になるというものだったが、 この流れを受けていた初期の歌舞伎は、非常に容色を重視していた。だから、美貌の花形に人気が集中したし、浮世絵師も美人画や美貌の役者絵しか描かなかった。仮面でない素顔が重要だったのだ。
このため歌舞伎の初めは美貌が重視された。しかし、歌舞伎の中心地が上方から江戸に移りだすと、大衆の欲望は「容色」から「技芸」に移った。粗雑な関東言葉を用い、クマを誇張した隈取りを施された役者が、 荒っぽいことを舞台上で演じた。いわゆる荒事である。荒事といえば市川団十郎(1660-1704)だが、彼は異様な風貌による圧倒的印象を発揮して、異界性と宗教性を持っていた。象徴的な化粧によって美の「type」を表現していたのだ。
十八世紀前半まで全盛を誇った荒事だが、時代の変遷の中で失速していった。八代将軍吉宗の下で隆盛した蘭学によって、 科学的実証主義の考え方が浸透し、演劇も宗教的象徴的なものから、写実的なものが好まれるようになった。 また、江戸に首都が移って百年以上経つと、江戸人の間に自前の文化を持ちたいという欲求が生まれ、 各芸能が落ち着きやゆとりを持つように高級化した。
それによって役者の顔も、誇張された隈取りよりもより素顔に近い形が求められるようになった。五代目団十郎(1741-1806)は「似顔」という写実的な化粧で人気を取った初めての役者といわれている。 更に、十九世紀にはいると、経済の発展により歌舞伎の観客が富裕層以外にも広がった。それ以前は、ヒーローは高い身分でなければならないといった制約があったが、観客層が変化したため、身分の低い人を題材に取った劇も行われるようになった。 身近な人間を材に取るため、役者の化粧はより写実的になった。
そして、「いき」という内面的な渋さを求める考え方が広がったことと、写真が登場したことで、ほぼ役者の顔の写実化が行き渡った。外面にこだわる事が廃れてしまい、素顔を隠して象徴化することが不可能になったのだ。 つまり例えば「転校生はすごい美形だったよ」という言葉だけの噂を聞くと、どんどん誇張して期待してしまう。しかし写真や実物を見てしまうと、それっきりで誇張された空想が生まれなくなってしまう。役者がせっせと化粧をしても、素顔がばれているので効果が上がらないわけなのだ。
 
3・1・3京劇と歌舞伎の比較について
 日本に初めで来た時、日本文学担当の先生は私たち一年の留学生を歌舞伎の公演に連れて行った。あの時日本語と日本伝統文化はあまり分からなかった。歌舞伎は京劇のように
激烈な動作はしなかった。私にとって、歌舞伎のことを面白くないと思った。日本に住んでいる時間が長くなって、日本伝統文化の事が少し理解できるようになった。そして歌舞伎は抽象的な芸術であること分かった。そして京劇は具体的な芸術だと思う。
 京劇は観衆が見て分かりやすいと思う。しかし歌舞伎は観衆に心理的効果をもたらすと考えた。日本人でも意味がわかる人は少ないのではないかと思う。
 
第4章  中日の食 
4.1 中国の食文化
4.1.1 中国の食について
中国の主食は、北部では,小麦粉だ。例えば,ぎょうざの皮などが小麦粉でできる中国の料理だ。南部では,米。例えば,ビーフンなどが米でできる料理だ。
(1)中国の四大料理
上海料理  海が近くなので、魚料理が美味しい。こい味が特ちょう。
四川料理  香辛料をたくさんつかった料理。ピリ辛料理が特ちょう。
広東料理  バラエティにとんだ材料を使っている。うす味が特ちょう。
北京料理  油を使った料理が多い。あまずっぱい味が特ちょう。ギョウザ ぎょうざは中国では縁起のいい食べ物なんだ。
 なぜかというと、ぎょうざは、昔のお金、元宝の形からできた。 ぎょうざの上についているひらひらは、宝石の輝く様子を表しているだ。 とても縁起がよさそうだね。 ギョウザと同じように、もう一つ縁起のいい食べ物がある。 それは魚だ。豊かさの象徴なんだ。
(2)デザート 中国では、ぎょうざなど、甘くない物をシェン点心、
あまいお菓子やデザートをティェン点心と、呼ぶ。西洋のお菓子にくらべると、日本では、まだ、なじみがうすいけど、ナッツや、フルーツを、たっぷり使ったティェンは、とても、健康的。ヘルシーでおすすめだ。
 中国では、月餅という、さまざまな具を入れた丸いお菓子や、メロン、もも、りんごなどのまん丸の月のような形をしたものを食べる。
 中国は世界で「料理王国」「グルメの国」と称えられている。中国人がいるところには必ず中国料理店がある。孫文がかつて、「中国の飲食の進歩はいまなお文明諸国が及ばないところである。中国の開発した食物は欧米より多いが、中国調理法の精密さは、欧米が匹敵できないものである」というまさにぴったりの要約をおこなった。
 中国には、「民は食をもって天となす」ということわざがある。食は人間が生存するうえでの第一義的に必要なものだと見られ、人々は生産と生活の実践において、天災と人災によってもたらされた飢饉に直面して、自らの生存のため、できるだけ種類の多い食物の発見と開発に努めてきた。
 中国人は食べることを楽しみの一種とし、飲食は人生の一番大きな楽しみと見ている。ほかでもない、中国人こそが数多くのすばらしい調理法といろいろなグルメ料理を作り出した。中国は土地が広く、気候は変化に富み、多種多様な動植物がある。これは中国の飲食調理の形成に、素晴らしい自然条件を作り出した。
4.1.2 地域ごとに特徴のある料理
 中国料理は、一万種以上ともいわれる「メニューの豊富さ」、つばめの巣やふかひれなどの食材をとり入れた「食材の種類の豊富さ」、そして、世界中の人びとに受け入れられている「おいしさ」によって、世界最高の料理のひとつといわれている。
 地方によって、気候、風土、文化が大きくことなることから、全国各地に郷土色ゆたかな料理が発達している。 おおまかに4つの系統にわけると北部の北京料理、東部は揚子江下流の上海料理、西部は揚子江上流の四川料理、南部が珠江(チュチャン)流域の広東料理となります。これを「四大中国料理」という。
四大中国料理の味の特徴を一言で言うと、「ペイシェン(塩辛い)、ナンティェン(甘い)、ドンスアン(酸っぱい)、シィラァ(ピリッと辛い)」である。
(1) 四川料理
山に囲まれたゆたかな盆地。夏は暑く、一年中湿度が高いので、風土病などを防ぐために香辛料を使う。唐辛子や山椒、ニンニク、ねぎなどをつかった、ピリッとからい味が決めてである。料理はバラエティに富み、調味料も豊富だ。マーボードウフ、ラァズヂィディン(鶏肉の唐辛子炒め)などがある。
(2)広東料理
南方の中心地。港町で、古くから外国との交易もさかんであったことから、西洋料理の影響を受けた料理が発達した。オイスターソースやトマトケチャップなどをつかった、山や海で取れる豊富な食材をつかうのが特徴。カオルウヂュウ(子豚の丸焼き)などがある。
(3)上海料理
海に近いため、魚やえびなどの海産物をたっぷりつかう。また、湖や川も多く、くせのある味の魚などもつかうため、味つけは濃く、比較的あぶらっこいのが特徴。代表的な料理には、ボウジュウヤンロウ(羊の肉と臓物の水煮)、ダァヂアシェ(上海蟹)などがある。
(4)北京料理
北京は古くから中国の首都であったため、各地方の料理人が集まり、優雅な料理が発達しました。砂糖はあまりつかわず、やや濃い味が特徴だ。北京ダック、カオヤンロウ(羊の焼肉)が有名である。
4・1・3 中華料理の歴史と現代の中華料理
 中国の調理は、数千年にわたる創造、模索、経験の蓄積を通じて形成された歴史的な集大成であり、長い歴史を持つ中国文明の有機的構成部分である。
中国の料理と食品はその種類にしても、風味と調理技術にしても、いずれも豊富多彩である。四川料理、山東料理、江蘇料理、広東料理の四大料理のほか、風味の異なる多くの地方料理および数千種の地方の軽食、異なった民族的風味を持つ料理や食品が形成された。
 山東料理は春秋戦国時代の斉と魯(今の山東一帯)を起源とするものであり、材料の選択を重視し、包丁さばき(切り方)が細かく、調理法が全面的で完備し、味付けが適切で、火加減もちょうどよく、口当りがよく、スープが材料のもとの味を保つことがその特徴である。山東料理は基本的に中国北部をカバーする中国北部料理の代表格とも言え、明朝、清朝の宮廷料理の中にもたくさん吸収されている。
 四川料理は昔の巴と蜀(今の四川省一帯)にさかのぼることができる。四川料理は広い範囲から材料を選び、味加減も変化に富み、さまざまな風味のものがあり、いろいろな調理法に加えて料理の種類も多いという特徴がある。統計によると、現在、四川料理の種類はすでに五千種に達している。味が辛いのがその特徴である。四川料理は「一つの料理が一つの風味をもち、百種の料理が百種の風味を持つ」と称えられている。
 江蘇料理は蘇州、揚州と南京(いずれも江蘇省にある)の地方料理が互いに補完し合い、溶け合って形成されたものである。江蘇料理は材料の選択が厳しく、作り方が細かく、調理法がユニークで、さっぱりした味で、塩と甘味の加減がちょうどいいし、また材料のもとの味を保つことを重視することがその特徴である。また、もう一つの特徴は料理の色彩、造型を重視し、観賞の価値がある。
 広東料理は古代を起源としているが、体系としては明代と清代に形成されたものである。広東料理は発展の過程において、五嶺の南一帯の地域の特色を保つことを踏まえて、たえず北部のさまざまな料理と調理法から養分を吸収するとともに、西洋料理の作り方をも一部参考にし、それを吸収して、現在の広東料理を形成した。その主な特徴は材料の品種が多く、風味がユニークで、季節別の料理づくりを重視し、口当りがよく、柔らかい。調理法は広東地方の特色に富む。 
 中国経済の発展、人々の収入の増加につれて、食品の質も急速に向上している。観光業が急速に発展しているため、内外観光客が日増しに増えている。社会経済の発展によって、多くの流動人口が現われている。これらすべては中国の飲食調理業のこの上なく大きな発展を促している。
 現在、四川料理、山東料理、江蘇料理、広東料理の四大料理体系は基本的に全国の各大中都市をカバーしている。各大中都市では、主導的地位を占めている四川料理、山東料理、江蘇料理、広東料理と地元の風味の地方料理があるほか、ユニークな特色をもつ潮州、東北、山西、台湾、湖北、湖南、海南などの地方料理およびモンゴル族、タイ族、朝鮮族などの民族料理もある。また、宗教的色彩を帯びた精進料理とイスラム料理および数多くの地方風味をもつ軽食もある。
 中国の人々は中国在来の料理や食品をよく賞味しているが、異国情調に富む外国の風味も排斥しない。北京を例にあげてみよう。北京ではアジアのタイ、インドネシア、ベトナム、日本、韓国の風味のレストランのほか、フランスの風味とロシアの風味のレストランもあり、町のあちこちでハンバーガー、ピザ・パイ、ケンタッキ・フライド・チキンなど西洋軽食店を見かける。中国の飲食調理業の発展をいっそう促すために、中国の飲食調理業経営者は外国の調理技法とその他の長所を吸収し、参考にしている.  
おくの深い中国の食文化中国の人びとの食へのこだわり中国の人たちは、たべることをとても大切にしている。それは、おいしいものを単に食べたいだけではない。ふだんの食事も、病気をなおすのも、健康な体を保つためには欠かせないことで、本質はおなじと考えているからだ。
 古代文化が花開いた黄河流域は、冬の寒さ、夏の暑さがとてもきびしい土地だった。厳しい自然環境の中で生きていくには、食事に気をつけて、病気に負けない強い体をやしなうしか無かったからである。
 中国のむかしの思想家たちも、どのたべものがどの季節にたべればよいか、どの病気をなおすのにどんなたべものをたべればよいか説いいる。
 食にたいするこのような考えは、中国の食文化を支えるもとになっている。やがてこの思想は、揚子江流域、広東地方などの南部にもつたわり、その土地でとれる食材をいかし、調理法や味つけを工夫して、おいしく健康に良いさまざまな料理をうみ出してきたのだ。
                                                          
4.2 日本の食文化
「食」はまぎれもなく、文化だ。文化は人々が楽しむためにある。日本の食文化が現在のまま留まっていて良いということはない。文化は往々にして異文化との接触によって触発され、さらに、その面と高さを広げ上げていくものだ。しかし、面の広い文化交流の過程で、思わぬ方向に行ってしまったものも過去における日本と中国との食文化の交流にはある。                                   
たとえば、干支で“猪(ツー)”があるが、猪は中国ではブタで、日本ではイノシシである。従って、猪年生まれの人は、日本ではイノシシ年生まれですが、中国ではブタ年生まれだ。中国で漢字が誕生して以降、イノシシからブタが派生したということは、考えられません。これは日本が漢字を導入するときに単純に間違えたのか、或は昔、中国でブタを豚と言っていたのが、いつの時代に猪に替わったということなのか、何れかと思う。イノシシは、中国語では野猪(イェーツ−)と言います。豚という漢字は、現在では“海豚(ハイトウン)”(イルカ)くらいにしか使われません。
 また、日本には「ぎょうざ定食」(鍋貼套餐・ティエタオツアン)というのがあります。焼きぎょうざとご飯をセットにした定食です。これは中国人にとっては、まったく理解を超える食べ物です。というのは、焼き餃子を含めてぎょうざは、中国ではご飯と同じ主食として認識されているからです。ぎょうをおかずにした「ぎょうざ定食」は、日本人の発明です。中国に来られても、決して焼きぎょうざとご飯だけをレストランで注文して食べるようなことはしないようにお願いしたい。最近では、「ヤムチャ」が日本でも普及してきた。仕事がひけてから同僚同士、友人同士あるいは家族でヤムチャの店に行き、ビールを飲みながらヤムチャを楽しむという人も少なくない。けれども、中国では、ヤムチャは朝食から昼食にかけての食べ物であって、夜、ビールを飲みながらヤムチャを食べるというのは日本人の発明だ。中国人にとっては、日本のヤムチャも理解し難いもののようだ。このように、新しい文化を導入しても、それが思わぬ方向に行ってしまったものも、過去における日本と中国との食文化の交流にはあるし、今後もこのようなミスマッチは起り得ることです。それは善し悪しの問題ではなく、日本の食文化を豊かにするのであれば構わないと思う。
  一方、最近では、日本から中国に導入されて来ている食品も幾つかあります。うどんは、烏冬面(ウードンミェン)と呼ばれ、既に中国料理の食材と化している。通常、焼きウドン(炒烏冬面)として食されているが、中国人の意識には、これが元祖日本であるという意識はない。
刺身は、一昔前までは、生魚片(ションユイピエン)と言われていたが、最近では、中国の海鮮料理店などでは、堂々と「刺身」(ツーシェン)と標示している。刺身(刺身)も、既に日本語がそのまま中国語と化している。但し、実際の刺身の内容は、日本のように多様ではなく、サーモンの刺身(・サンウエンユイツーシェン)とロブスター(・ロンシアーツーシェン)程度だ。日本では、刺身の代表格はマグロ・トロだが、中国での刺身の代表格は、サーモンだ。変わったものでは、日本でも流行した雪見大福(ヌオミーシュエカオー・もち米アイスクリーム)も中国のスーパーマーケットで売られている。
この他、日本を始め、米国・台湾・フランス等からも、調味料からお菓子に至るまで様々な食品が大量に入って来ており、中国人の食生活は海外ものをどしどし取り入りれて新たな刺激を受ける段階になっている。
以上、中国人の食文化のほんの特徴的な一端と、日本のそれとの比較をしてみた。私たちの持つ食文化の現在を知り、おいしさとは何かを認識することによって、私たちの味覚をさらに磨いていくための一助になればと思う。         
 
第5章  中日のスポーツ
5.1中国カンフ
 「中国カンフ」という言葉は近年になっていわれ始めたもので、現代のものだ。それなのになぜ、「中国カンフ」について、中国古代の歴史から説き始めなければならないのか。中国の過去の歴史に関する文献の中には、「カンフ」についての記載はないのに。この現代的な名称は昔の歴史とどのように関わっているのだろうか。現在のいわゆる「中国カンフ」とは、中華民族の古代から現代に到るまでの武術や武芸、その修練、そしてさまざまな健康法の総称なのである。つまり、「中国カンフ」とは中国の「国術」と同意義であり、中国武術の尊称というわけなのだ。「中国カンフ」は、拳法・武器・基本技術からなる。中国の拳法は、専門家の統計によれば、著名なものだけでも100種類伝えるといわれる。その武器には、長いものが9類と短いもの9類とがある。すなわち、「武芸十八般」といわれるもので、刀・銃・剣・棒などの18類ある。拳法にも武器にも、体によって異なる型や技があり、理論も技術も広く奥が深い。「中国カンフ」は、一般のスポーツとは異なった特別を揩チている。一般のスポーツの場合、たとえば陸上・球技・重量挙げ・ボクシングなどの選閧ヘ、30歳を過ぎると体力の維持難しくなるため、現役から引退しなければならない。しかも、青少年期の過度の運動は、知らぬ間に運動障害を引き起こし、中年以降になって健康にまで影響してくることもある。しかし、「中国カンフ」の場合はそういうことはない。カンフは外功と内功とに分けられる。いわゆる「外は筋骨皮を練り、内は精気神を練る」。つまりカンフは、強靭な体格と敏捷な動きを訓練するだけでなく、体の中から鍛練することによって、心身を整え、五臓六腑を強くし、気脈の流れをスムーズにするものである。その結果、動から静へ、剛から柔へと、年を重ねるほどにカンフの力が増していき、健康の維持長期大きな効果をあげることができるのである。「中国カンフ」には、中国の象形文ように、ものの形をまねてできたものもある。たとえば、小林流派の竜・虎・豹・蛇・鶴の五拳法と、後漢(25〜220年)の未期、名医華陀が編み出した虎・鹿・猿・熊・鳥の五禽劇。これらはすべて、さまざまな動物の特性と攻防技能をまね、拳法の動きの中に医療保健ものである。このほかにも、拳法の武芸帖や武器の口伝の中には、歌いやすくし節をつけて舞台で演じられるようになったものもある。古い武芸は芸術にまで高められることによって、現代社会の中でもなお生き続けているのである。
「中国カンフ」は、流派が非常に多い。大きく分けて南拳と北拳とがあり、さらにそれぞれ内家と外家に分かれている。その中で比較的有名な流派は、少林・太極・形意・八卦・詠春・秘宗・羅漢などである。
「天下の功夫は少林より出ず」−このようにいわれる少林流派は北少林と南少林とに分けられる。北少林には、数百年もの間中国にあまねく行きわたっていた査・華・紅・炮・潭北拳の五大流派があり、南少林の竜・虎・豹・蛇・鶴の五拳法及び洪・劉・粹・李・莫の五派などとに、互いに競い合い栄えていた。このほかにも数多くの少林分派がある。
一方、太極の流派には、陳・楊・武・孫・呉の五流派がある。新しい形と古い形の拳法の相違はあるにせよ、その原理と要領は同じである。どの流派の太極拳も、熟達すると、「l両(150グラム)の力で千斤(600キログラム)をはね飛ばす」−つまり、非常に鋭い感覚によって、いかなる状況下においても、いつでも余裕をもって外からの襲撃に立ち向かうことができるという。
 
5.2日本の相撲
 相撲の歴史とその流れについて述べたい。相撲は神話伝承の時代に始まり、今では日本の「国技」と称されている。平安の節会相撲、江戸の勧進相撲を経て、明治維新や敗戦の激動を乗り越え、現在の興隆に至るまでをたどり日本人の生活や心と密接に結び付いた歴史である。
 相撲が歴史上の事実として記録されたのは、今から約1300年前の皇極天皇(642〜644)の元年からで、このとき百済(古代朝鮮の国家)の使者をもてなすため、宮廷の衛士(兵士)を集めて相撲を取らせたことが日本書紀にある。次いで聖武天皇(724〜749)のころになると、勅命をもって全国から相撲人(力士)を募集し、宿禰の相撲を取った話の故事に因み、毎年7月7日の七夕祭の儀式に、宮中紫宸殿の御庭で相撲天覧を行った。初めは七夕の日に文人に命じて七夕の詩を作らせる儀式の余興として相撲を催したのである。民族学の方から言うと、これまで長く民間において行われていた農作を占う神事相撲が、このころから天皇家の貴族たちにも愛好されるようになり、宮廷において取り上げられ、大規模な国家的年占いの相撲節(すもうせち)に発展して行くわけである。このことは、平安朝の節会相撲(せちえずもう)当日、まず占手(うらて)という4尺(1・23メートル)以下の子供を2人入場させて勝負を決め吉凶を占った事にその形をとどめている。
一方、中世以後の各地の主だった大社に、民間の神事相撲が伝承し、宮廷に関係のある大社では相撲節を真似て、儀式がともなう神事相撲を行うようになった。日本の相撲が外国のスポーツの根源において発展してきた事である。古代ギリシァなどにおいても、初めてスポーツを神々に奉納してきたが、日本では単に体育的なスポーツでもなく遊び事でもなかった。太古のころから、農作物の収穫を祈り占う農民の祭り事として盛んになったことは、近年発達した日本民俗学によって明らかにされており、さらに相撲だけでなく競馬(くらべうま)、弓矢、綱引き、石合戦なども、すべて神のおぼしめしを伺う意味であった。相撲の場合は、隣部落と比べてどちらが豊作になり、神の恵みを受ける事ができるかを占うため、部落の代表選手を選んで勝負させ、その結果において吉凶を判断したものである。
近年は、農村構造の甚だしい変革から、五穀豊穣を祈願し、また神明の加護を感謝する奉納相撲は衰微してきたが、しかし、今なお各地の農村において、相撲をともなう村の鎮守祭りがみられる。また一時中絶していた農民の神事相撲のなかには、大相撲の隆盛に刺激され、少年相撲の形式で復活する地方が多くなってきた。 
 相撲の定義は、「廻し(まわし)」を締めただけの裸体の2人の競技者が素手で土俵上において勝負を争い、互いに相手を倒し合い、土俵外に出し合う格技の一種ということになる。現在の相撲は、明治42年から日本の国技と言われ、日本独自の格闘技とされているが、世界史的観点から見ると、古代の世界各国で、相撲の形態によく似たスポーツが盛んに行われていた。また2500年前のエジプトのナイル河横穴にある壁面に、相撲の取組の形をした裸体の男が数多く描かれている。
東洋でも2500年以上前のインドで、釈迦がまだ悉多太子(シッダルターにたいし)のころ、弟の阿難陀太子及び提案達多(ダイバダッタ)と相撲を取り、この2人を次々と倒して美姫を嫁に得た争婚の記録が釈迦伝説の『本行経(ほんぎょうきょう)』の「第十三桷術争婚品(ぼん)」というお経にある。
これは映画「釈迦」の一場面にも現れ、太子が剣の試合によって娘を得たことになっていたが、経本には相撲によって行われている。同じころ中国でも角觝(かくてい・相撲の意)という名称が秦に始まり、漢の武帝のころ盛んになり梁時代に相撲の文字も使われ始めている。また1500年前の東北(満州)南部の集安の通溝にある古代朝鮮の高句麗(こうくり・高麗)の大古墳・角抵塚(相撲塚)に相撲の壁画がある。
このように大昔から世界中の民族が、ほとんど人間の本能として相撲のような形で力比べをしたが、文化の発達するに従い、原始的な”打つ、殴る、蹴る”というプロレスのような乱暴な相撲の形も、相手をケガさせないようなルールができて、だんだん変わってきた。ヨーロッパではレスリングとボクシングに、中国では拳法に発達した。蒙古、朝鮮、インド、ロシア、ブラジルなどにおいても、それぞれのルールに従って、相撲によく似たスポーツが今なお行われているのは、この競技がいかに古くから世界中の民族によって、素朴な形で戦われたかを証明するものであろう。
日本でも太古のころから相撲と同様の競技が行われていた事は、発掘品の埴輪(はにわ)、土偶で四つに組んだ人形を見ても明らかである。和歌山県井辺八幡山古墳から出土した埴輪に、褌を締め、裸足の裸体の男子像がある。この立像は、鉢巻を締め、両足をガニ股のように開き、腕を前方に伸ばしているので、相撲をとっている形が想像できる。この大古墳は6世紀初頭と推定され、古墳時代にも盛んに相撲を取っていたことを立証する発見といえよう。弥生時代から一般農民の間には、農作物の収穫をうらなう祭りごとの農耕儀式(神事相撲)として各部落で盛んに行われ、全国に広まった。こうして古墳文化時代(230〜550)から、またそれ以前の相撲に関する神話や伝説が語り伝えられ、文字が普及した奈良時代に物語として記録されるようになった。
  日本の相撲は『古事記』や『日本書紀』に載せてあるいわゆる神話時代の神話伝承から始まる。古事記には建御雷神(たけみかずちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)が、出雲(島根県)の伊那佐(大社町稲佐)の小浜で、互いに手をとり合い投げ合い、ついに建御名方神が負けて信濃国(長野県)の諏訪に逃げ「国ゆずり」の戦争問題を当時の「力くらべ」という相撲によって解決したことが記録されてある。日本書紀には、垂仁天皇7年7月7日、野見宿彌と当麻蹶速が天覧のもとに「力くらべ」をして、宿彌が蹶速の脇骨を蹴折って勝ったことが載せてあり、今も宿彌は日本相撲の始祖として祭られている。以上の2つの話は歴史の事実ではなく、神話伝説の域を脱することはできない。
まだ暦も文字もない時代に、古くから「力くらべ」という相撲の話が伝承され、相撲好きの日本人が、遠い先祖から語り伝えられている部族間の争い話を、相撲の物語に託して語り伝えられたものであると解釈されている。宿彌・蹶速の相撲も、新たに渡米した民族(大和族)と先住民(出雲族)が争った話に挿入されたものであろうとも言われる。この相撲跡の伝承地が、奈良 大正末期から昭和初期にかけての大不況と労働運動の高まりの中で、相撲界もまた不振にあえいでいた。昭和2年、東西合併による新陣容がスタートしたものの、事実上は東京方と比べて実力的にはるかに劣っていた大阪方が東京方に吸収合併されたようなものであって、大阪方から加入した陣内力士は、横綱・宮城山ほか5人だけで、多くの力士は廃業した。この東西合併を機に、1月5日の東京での張る、夏場所のほか、3月と10月に関西本場所が設けられ、年4場所となった(昭和8年天竜一派の関西角力協会の成立により廃止となる)。
昭和3年春場所からラジオ実況放送が開始され、初めて仕切り線と仕切り制限時間が設けられた。不戦勝制度が確立したのもこのころのことである。5年夏からは従来四本柱を背にして土俵上にいた勝負検査役土俵の下に降り、6年夏からは土俵の直径が13尺から15尺に拡大された。新鋭男女ノ川改め朝潮と武蔵山の台頭でようやく相撲人気回復の兆しが見えていた矢先の昭和7年1月、春秋園事件が勃発、相撲協会の改革を要求して幕内力士の大半が協会を脱退した。協会では2月、残留力士による改定番付を作成、旧来の東西制の伝統を崩してやむをえず部屋系統別総当り制により8日間の本場所を挙行したが、国技館には閑古鳥が鳴く有様であった。しかし引退間もない藤嶋(元横綱・常ノ山)、春日野(元横綱・栃木山)両取締の懸命な努力や玉錦ら残留力士の奮闘で、一時は破壊的な打撃を受けた大相撲は立ち直る。翌8年になって脱退力士の大半が復帰したうえ、横綱に昇進した玉錦第一人者として土俵に君臨し、更に昭和10年代に入ると不世出の大力士双葉山の出現により、史上空前の大相撲黄金時代が訪れることになる。双葉山は日中戦争初期の戦勝に歩調を合わせるかのように勝ち続け、昭和11年春場所7日目から14年春場所3日目まで、5場所連続全勝優勝を含む前人未到の69連勝の偉業を達成する。当時国技館は、連勝を続ける双葉山を一目見ようと前日から徹夜組もあって、連日押すな押すなの盛況だった。このため興行日数も12年5月から13日に、更に14年5月からは15日に延長された。  14年春場所4日目、69連勝の双葉山が新鋭安藝ノ海の外掛けに破れるという大番狂わせ「双葉敗ける」の報は号外となって街中に伝えられた。双葉山は次の場所から見事に立ち直り、18年夏場所まで、年2場所制の下で、優勝通算12回、うち全勝8回という大記録を樹立する。15年春場所からは東西制が復活、18年春場所には双葉山、双羽黒、安藝ノ海、照國の4横綱時代が到来するなど、相撲人気は沸騰した。
しかし太平洋戦争が始まり、次第に厳しい戦時体制に入ると、相撲界もまたもろにその影響を受ける。関取たちは銃を持って軍事教練を強いられ、若い力士たちは次々と応召して戦地に赴く。輸送事情から巡業も不可能となり、力士たちは勤労動員の日々を送るようになる。19年2月には国技館が軍部に撤収されて、夏場所からは小石川後楽園球場で10日間の野天興行となる。20年3月の東京下町大空襲で国技館は炎上、両国の相撲部屋の大半が焼失するという事態の中で終戦を迎える。
  戦後は占領軍によって国技館が接収され、20年から23年にかけては、被災後応急修理されたメモリアルホール、神宮外苑相撲場、大阪仮設国技館と本場所の開催場は転々とせざるをえず、興行日数も不定であった。更に深刻な食糧不足による力士たちの体力低下が追い討ちをかけた。それでも力士たちの実力審査の場である本場所は、こうした混乱期にも休むことなく続けられた。人気回復のため、22年夏場所から優勝同点決勝制度、同年秋場所からは部屋系統別総当り制が採用され、新たに三賞が制定された。この苦しい時代を支えたのが横綱・羽黒山であった。昭和24年、東京・中央区浜町に仮設国技館が建てられ、5年振りに春場所を開催、初の江戸っ子横綱・東富士が誕生したころから、大相撲はようやく復興への道を歩み始めた。続く夏場所から15日制が復活、翌25年には台東区蔵前に仮設国技館が建設され数次にわたる改修工事を経て、29年9月には本建築が竣工、秋場所本場所前日その落成式が行われた。同時に相撲博物館も開館、ここに戦後の大相撲は完全に軌道に乗った。昭和天皇を初めて本場所にお迎えしたのは30年夏場所のことである。この間、24年からは年3場所となり、28年からは3月の大阪場所が定着して年4回場所となる。
 また、25年には横綱審議委員会が設置され、27年秋場所から四本柱が撤廃され、代わりに吊り屋根から4色の房が下げられ、観客へのサービスが図られるとともに、28年夏場所にはテレビ中継放送が開始された。30年代に入ると、日本経済の復興に呼応するかのように、相撲界は戦後の黄金期を迎える。土俵は小兵の名力士・栃錦、若乃花が技とスピードで大型力士を倒してファンを魅了する。”栃若時代”である。
折からテレビの普及により、大相撲は広く一般家 庭の茶の間の中に浸透し、”テレビ桟敷”の言葉まで生まれた。昭和32年から九州本場所、翌33年からは名古屋本場所が増設され、年6場所制がスタートする。一方、このころから、力士の月給制の採用、年寄、行司らの定年制の施行、相撲茶屋の改革、相撲教習所の設置、相撲診察所の開設など、相撲協会では諸制度の整備、改革を着々と推し進め、時代の進展に沿った経営の近代化を推進したのは、元横綱・常ノ花の出羽海、元横綱・双葉山の時津風の2代にわたる理事長であり、これを支えて手腕を振るった元幕内・出羽ノ花の武蔵川取締(のち理事長)の功績も大きい。”栃若”に次いでは大型の”柏鵬”の対立である。柏戸の”剛”と大鵬の”柔”、対照的な両雄は人気を二分し、相撲黄金期は続いた。だが、柏戸が相次ぐケガに見舞われ、やがて大鵬独走の形となる。大鵬は2度の6連覇を含む32回優勝の偉業を成し遂げ、”巨人、大鵬、卵焼き”という言葉が流行した。反面やや土俵がマンネリ化し、40年代の前半には若い層の相撲離れの現象が顕著となり、ファンは中高年層に固定化し、人気は全般に下降線をたどった。これを救ったのが”北玉”(北の富士と玉乃島改め玉の海)、”貴輪”(貴ノ花と輪島)の台頭であり、特に”角界のプリンス”と言われた貴ノ花の活躍は再び相撲人気の上昇をもたらした。この間、昭和40年から完全部屋別総当り制の実施、44年には勝負判定にVTRの採用、47年には公傷制度の制定などの諸改革が行われた。戦後日本の国際化の進展が著しいが、大相撲の世界でも、30年代後半からハワイ巡業が恒常化し、40年代に入るとソビエト公演を皮切りに、中国公演も実現し、高見山を初めとする外国人力士の活躍もあって大相撲の国際交流は活発となる。また輪島など学生出身力士も相次いで進出し、相撲人気の底辺は広がり、大相撲は国民の間に広く定着した。やがて土俵は”輪湖”の対立から北の湖の全盛期となり、50年代の後半には”小さな大横綱・千代の富士”の時代へと推移する。昭和60年1月、元栃錦の春日野理事長の長年の念願であった新国技館が相撲のメッカ両国の地に完成し、その落成式が盛大に行われた。
新国技館は新しい技術が駆使されており、正に国技の殿堂と呼ぶにふさわしい、すばらしい建造物である。新国技館の開館に呼応して、春日野、二子山(元横綱・初代若乃花)の両理事長が立会いの正常化と土俵の美をモットーに土俵の充実に努め、成果をあげた。  更に青少年への相撲の普及、相撲の底辺の拡大を目標として、移動相撲教室やわんぱく相撲大会への助成、草津の相撲研修場の開設などにも力を尽くした。昭和64年1月7日、こよなく相撲を愛された昭和天皇が亡くなられた。昭和天皇は戦前にも宮城内覆馬場、芝水交社などで相撲をご覧になったが、昭和30年夏場所、初めて国技館に行幸されて以来、40回にわたって国民とともに心から相撲をお楽しみになった。時代は平成に移り、横綱・千代の富士は31回の優勝記録を残して引退、その後一時は横綱不在の時期もあったが、小錦の活躍や、曙、貴花田(貴乃花)、若花田(若乃花)ら新鋭の台頭で土俵は大いに活気を呈し、今や大相撲への道を歩み始めた貴乃花を中心に展開する本場所は連日満員御礼の記録を更新している。二子山理事長の後を受けて元横綱・佐田の山の出羽海理事長が就任(改め境川)。一方では日本の伝統文化としての大相撲のすぐれた特性を守りつつ、地方、広報部の新設、巡業改革や年寄名跡の管理などの新方策を打ち出し、21世紀に向けてますます大相撲は発展の道を歩みつつある。
 
5.3      中国の武術と日本の相撲の比較
 相撲は日本の国技といわれているが、日本代表的な格闘術ではないと思う。私は空手道を日本の代表的な格闘技と思う。相撲は神様に祈祷する意味が込められている。
中国武術は純枠的な格闘術である。相撲は古代の中国から伝えられた。時代とともに、格闘術も進歩した。清代に中国武術は現代のように定まった。相撲は中国に残らなかった。中国武術が相撲に変わった。   
 
第6章 中日の建物文化
 建築は、人類がそれぞれの風土の中で生み出した文化の一つと言える。なにげなく見える農家のたたずまいにも、数千年の歴史が刻み込まれている。日本は地震や台風も多く、それらに対する工夫も重ねられてきた。近年世界遺産に指定された法隆寺や姫路城、あるいは白川村の合掌造りなどがその良い例だ。
 近年になって西欧の建築技術も積極的に吸収して約150年経つが、それも日本の風土になじませながら、今日に至っている。まさに日本の建築文化は、先人たちの工夫と努力の結晶だ。
また、中国や朝鮮など近隣諸国の文化も吸収して、建築に取り込んできた。
 
6.1 日本の建築文化
 日本の建築文化といえば、やはり細やかな匠の技が光る木造建築。富の象徴ともいえる蔵や、その地方の気候や習俗を反映し、さまざまな工夫の凝らされた母屋や屋敷。見慣れているわけでもないのに、その建物を目にしただけで、懐かしさや温もりが伝わってくるから不思議だ。蔵の扉や建物の屋根などに施された彫り物や文様なども近代建築とはひと味違う見事さ!外観だけでなく、内部の階段や座敷、床の間や格子などに漂うワビ・サビの雰囲気にも思わずウットリする。
 江戸以前の蔵や母屋、屋敷などに代表される建築文化を一変させたのが、明治時代の文明開化。西洋文明が一気に入ってきたことにより、それまでのスタイルとは全く異なる独特の建築物が作られた。ネオバロック様式やルネッサンス様式などのヨーロッパ文化の影響を受けた豪華な学校や役所などの建物をはじめ、一般庶民の邸宅や蔵などにもレンガ作りのものや洋風建築が広まった。いまだに古さを感じさせないモダンでオシャレなたたずまいは、まさに時代を超えている。
 
6.2 中国の建築文化
 中国は、長い歴史と古代文化の遺産を持った国である。 歴史は中国にたくさんの、古くて傑出した建築上の遺物を残してきた。 それらの遺物は、何千年もの発展の結果であり、世界の建築物の中で独自の体系にもなった。
 中国の様々な民族の中で、漢民族の建築様式は、最多数、最大規模で、中国建築の成果を最も象徴するものである。それらの建築物の特別な様式を、これから討論していく。
 木製フレームは中国の建築様式に2000年前から現れた。漢王朝のお墓と地上の見張り台の遺跡から、初期の木製フレーム構造が見られる 。今まで残っている建物の中に一番多いのは木造である。仏教の宝塔や無梁殿、或は地下の納骨所など、これらはレンガや石で組み立てられたけれど、外観的にはやはり木造風が現してある。中国伝統な建築の中木造は最高位にあることを立証している。
 早期の木造建物の多くは、次のような三つの基本的な分類に分かれる。それは、層梁構造、柱梁構造、丸太小屋型構造である。
 古い中国の建築でもっとも重要なのは「斗拱」という受け材の腕木である。これは、すべての大型建物-宮殿、霊、そして寺院−木で造られた建物ばかりではなく、レンガ、石そして釉焼き建物などにもみられる。それは、昔中国大工の独自の創造であると考えられる。
 「斗拱」は、大梁を組み合す、柱先端の「拱」と呼ばれる、短く弓形をし、いくつかの層で骨組みされた腕木に使用される。2層の「拱」の間に、「斗」と呼ばれる木が置かれる。「斗」と「拱」の層で構成された形を「斗拱」と呼ぶ。これらは、屋根から張り出された軒を固定し、それから梁の端を支え、スパンを減らすために利用される。
 「斗拱」は、早くも紀元前7世紀のころには、記録されその名をあげていた。漢朝の時計台、絶壁の墓や石でできた浮き彫り彫刻は、「斗拱」ブランケットの早期の形式を示している。その形式は、唐、宋朝時代まで十分に発展していた。その形式が統一化されたばかりでなく、その構成要素のサイズがうまくそれらの製造を容易に統一化させた。「斗拱」の腕木の構成部材がまったく小さく、計画、建築過程、その「拱」のサイズが他の建築物構成寸法の基本的な構成単位として使われてきた。12世紀の北宋時代、ある地方役員が「建築法典」という本を書いてきた。「建築法典」の中に、「拱」のサイズは建築の各部分のサイズを測り測定基準とを規定してあった。技術の改良により建物の壁はレンガになり、屋根もひさしが昔よな深さは必要なし、それを支える「斗拱」の役割もしだいに重要性をもたなくなっていった。
 木製フレームをつかった伝統的な中国建築術は、数千年の間続けらた。明らかに、それは優れた長所があったに違いない。そのうち1つは、優れた柔軟性だ。層梁構造と柱梁構造どちらにおいても、それらの構造を用いた建築物は、壁よりもむしろ柱によって支えられており、外側と内側の壁の形状は、実際の多様な事情によって決定される。例えば、外側の壁は実際の壁でもいいし――北方では厚い壁であり、南方では木や竹で出来た“掛け壁”――ドアや窓を持つ壁でもいいし、或は同じ構造が全く壁のないオープンエアとして使うことも出来る。上述した様に、これらの構造は、多くの種類のホールやパビリオンの異なる要求に満足させられる。室内では、木製壁や折りたたみ式仕切り壁は、隔壁またはついたてなどを空間で用いられる異なった、標示として使用することができる。木製構造の2つの利点は、比較的耐震性に優れていることである。なぜならば木製フレームの大部分は、木材のほぞでつながれており、ほぞ穴の結合部分は柔軟性に富んでいる。そして、木自体が木製建築物の安全性を増加させるような頑丈さを持っている。もしこのような建築物が地震のような突然の力を受けた場合、他の建築物に比べて割れたり崩壊する見込みは少ない。
 歴史を通じて、紫禁城の太和殿を含む数え切れないほどの建築物は、稲妻を受けたり、火事によって破壊されてきた。この重要な建築物である帝国の邸宅は、火災によって燃やされた後に再建された。南部では、木造建築物は白蟻によって、ひどく損害を受けていた。木造建築物は、寿命が短いだけでなく、木の成長の遅さによっても、レンガや石に比べても、材料として制限されている。それは必ずしもいつでも多量に入手できる訳ではない。
  封建社会の中央権力の下でさえ、やがてはスケールの大きい木造建築を続けることが不可能になる。数千年以上の間ずっと発展してきた木造構造物は、世界の建築の中で珍しい体系となった。
  私たちが今日見られる古い中国の建物は、宮殿や寺院と同じ位大きかろうと一軒屋と同じ位小さかろうと、集団や群れをなしているように見える。現在、いくつかの展示館や非常に高い仏塔は単独で存在しているように見えるが、現実において、それらは元は建物の集団の一部としてわずかに残っている建造物だった。
 今中国の北の建築物でもっとも広範囲におよびたくさんの住宅構造物である“四合院”について調べてみる。これは、住宅建築でもっともありふれた建築物である。その名前は四角い広場の四方にある建築物の屋根をつなげてつくられた中庭の形をもった四つの構造物が本源となっている。一般に、南に面している北側の建物は“上房”と呼ばれていた。なぜかというと、冬は暖かく、夏は涼しいというとても良い場所であり、王室の長や老年期の世代の家族に使われていたからである。西や東に面している家は“廂房”と呼ばれていた。また、南側の建物は時々“下房”と呼ばれていた。それは、子供と使用人用だった。
 この四合院の入り口は普通南西コーナーに配置されてある。中の庭園に入る前、入り口にはまず“影壁”と言われる“下房”の南側の壁を対面する。ある場合、ホールが使われてある。これような部屋の配置は、老人と若者、主人と使用人、といった上級と下級の階級関係を強調するという古い中国の協定に従ってある。機能上、建物で囲まれた中庭は、花や木を植える場所であり、安全で静かな環境を作り出していた。建物の大きさは所有者の経済的な地位によって変わる。領地の役人や富のある有力者は単純な中庭様式の建物を持つことにもちろん満足できない。その結果、建物は、つけたされた中庭を形成するために南北方向に付け加えられた、はじめの建物の後ろに。拘束された空間によって限定された場合は、いくつかの中庭は、東西の方向に隣接された。しかし、それらが、南北、あるいは東西につながれたかどうかは、このような建造物の集団の配置によれば、重要な部屋は、すべてのその周りに、基本対称でひとつの軸に沿って配置された.城や大邸宅の中庭の様式は、気候、材料、慣習の違いから、場所ごとによってさまざまな種類があるようだ。北部では、冬は乾燥していて寒く、夏は涼しい気候であり人口密度は低く、中庭は比較的大きい。冬場には、建物に日光がとどく。4つの側面を持った建築物はまっすぐに連結されていなかった。しかし、熱く湿度の高い小国で人口が密集した南方では、空間が不足し、中庭を大きくすることができなかった。4つの側面を持った建築物は日光、通風そして、建築物同士の連結を与える小さな中庭の周りに集中させた単一構成要素へ連結されていた。時々は四面の建物が2階あり、庭をもっと狭く見せる。このタイプの家は、四角い状態であるため、ときどき“一顆印式”住宅とたとえされてある。地域の高原の黄土には、地球で大変特有な“窖洞式”の住居を建築するのに利用された。
 古い中国建築に芸術が使われるユニークな方法は、全体の外装や、一本の梁の終端やタイルまで、建物のいたる部分に飾ってある。中国の建築物の屋根は、それらの木構造のために多少大きく見える。初期の中国の建築家達もまた、木造の独特をの特性を使用し、4つの角にわずかに上に向く軒がある、そしてむねの上にさまざまな興味を引く動物が配置する。そして、長期の実験後、彼らもまた、隅棟(すみむね)のある屋根や隅棟と切り妻屋根がある屋根や単檐屋頂(たんえんおうちょう)や重檐屋頂(じゅうえんおうちょう)や、屋根に特有の芸術的な特性を持たせた。
 今、伝統的な中国建築の一般的な特徴を理解し得ることはで、宮殿,墓,宗教的建造物,庭園,そして建築上の装飾の特色をより多くの細部まで見ることができる。
 
第7章 おわりに
 中国と日本は文化,言葉、習慣などが違う二つ国家ですが、1000年以前から中日両国の間に海を越える交流が始まった。その結果、中日両国に同じものもあり,違うものもある。
 日本の伝統文化は中国古代から伝わった中国文化の吸收という形に現われている。現代では、中国は日本の先進科学技術を学んだ。これからの21世紀、中日の新しい交流が更に盛んになるように思われる。